瑠璃色のように美しい世界

読書と映画、日本酒とワイン、牡蠣と牛、村上春樹とフィッツジェラルドを愛する筆者が見た美しい世界についての日記です。

広い視点を持つことはそれなりに苦痛が伴うものである

広い視野を持つと言うのは、一般的に、ポジティブなニュアンスで用いられることが多い。例えば小学校を卒業し、中学校に入学したとき通常人の数が増える。そのため、地元で出逢ったことのない種の人に出逢う。その時に、「こういう人もいるものだ」と感じることが多い。

 

それを感じると同時に、地元という狭い空間の中で蓄積してきた経験と価値観を一旦修正しなければならない。自分の生きてきた経験を疑って見なければならない。

たぶん、そうしないと外界に適応できなくなるし、自己の成長はそこで止まってしまう。

 

「こういう人もいるものだ」と考えられることは、自分の視点が広がったというニュアンスにおいては非常にポジティブな体験と言えるが、それなら、なぜ、人は広い視点を持とうと努力したり、自分を疑ってみる勇気を持てないのか?

 

もちろん認知側面において、人は自分の認知にかなり縛られているという事実があると思う。

 

認知を再び構成するというのは、一人で行うにはかなり時間と苦痛が伴う。

 

うつ的状況に置かれると、それはそれでネガティブな思考と体験の悪循環を体験するし、まるで生きること全てが苦痛の体験に見えてしまうこともある。

 

しかし、だからこそ、新しい視点を取り入れるというのは、よほどの覚悟が必要だと思うのです。狭い世界に生きて、狭い価値観の中で生きるというのは、今の時代からすると滑稽に映るけれども、人は信じる対象があると「自分はこの世界でやっていこう」と前向きになれるし、狭い世界の方が生きやすい人もいるのだと思う。

 

何かを信じるという行為は、一見主体的責任感を伴っているように見えるけど、そこには明らかな受け身性があって、新しい世界や信じる物以外の視点を持つことを放棄していたりする。

 

自我がはっきりしている人は、広い視点を持つ方法をたくさん教えてくれるけれども、全くそうでない人からするとよくわからないだろう。

 

何種類かの人がいる。そうわかっているだけでも、1日前の自分と比べてまだ広い視点を持てていると感じる、それで良いのか〜。

 

いずれにしても、新しい世界をみることは美しいけれど、とても孤独である。