最近見たAmazonプライム良き映画
私はAmazonプライム会員なので、よく映画を観ます。最近は読書と映画ばかりで、流行に付いていけていないような感じがします。
ということで、最近みた映画についてご紹介します。
1930年代、スウェーデン北部のラップランドで暮らす先住民族、サーミ人は差別的な扱いを受けていた。サーミ語を禁じられた寄宿学校に通う少女エレ・マリャは成績も良く進学を望んだが、教師は「あなたたちの脳は文明に適応できない」と告げる。
そんなある日、エレはスウェーデン人のふりをして忍び込んだ夏祭りで都会的な少年ニクラスと出会い恋に落ちる。トナカイを飼いテントで暮らす生活から何とか抜け出したいと思っていたエレは、彼を頼って街に出た――。
サーミの血 公式https://www.uplink.co.jp/sami/
最近出版された村上春樹訳、マーセルセローの極北を読んでいますが、その影響なのか、極寒の中生き抜く遊牧民についてもっと知りたくなりました。
このサーミの血は、公式ホームページで感動作、とかかれているけれど、感動作とかそういうニッチな言い方では表現できないものがあります。
良い映画は大抵そうですよね。
是非ご覧ください⭐️
広い視点を持つことはそれなりに苦痛が伴うものである
広い視野を持つと言うのは、一般的に、ポジティブなニュアンスで用いられることが多い。例えば小学校を卒業し、中学校に入学したとき通常人の数が増える。そのため、地元で出逢ったことのない種の人に出逢う。その時に、「こういう人もいるものだ」と感じることが多い。
それを感じると同時に、地元という狭い空間の中で蓄積してきた経験と価値観を一旦修正しなければならない。自分の生きてきた経験を疑って見なければならない。
たぶん、そうしないと外界に適応できなくなるし、自己の成長はそこで止まってしまう。
「こういう人もいるものだ」と考えられることは、自分の視点が広がったというニュアンスにおいては非常にポジティブな体験と言えるが、それなら、なぜ、人は広い視点を持とうと努力したり、自分を疑ってみる勇気を持てないのか?
もちろん認知側面において、人は自分の認知にかなり縛られているという事実があると思う。
認知を再び構成するというのは、一人で行うにはかなり時間と苦痛が伴う。
うつ的状況に置かれると、それはそれでネガティブな思考と体験の悪循環を体験するし、まるで生きること全てが苦痛の体験に見えてしまうこともある。
しかし、だからこそ、新しい視点を取り入れるというのは、よほどの覚悟が必要だと思うのです。狭い世界に生きて、狭い価値観の中で生きるというのは、今の時代からすると滑稽に映るけれども、人は信じる対象があると「自分はこの世界でやっていこう」と前向きになれるし、狭い世界の方が生きやすい人もいるのだと思う。
何かを信じるという行為は、一見主体的責任感を伴っているように見えるけど、そこには明らかな受け身性があって、新しい世界や信じる物以外の視点を持つことを放棄していたりする。
自我がはっきりしている人は、広い視点を持つ方法をたくさん教えてくれるけれども、全くそうでない人からするとよくわからないだろう。
何種類かの人がいる。そうわかっているだけでも、1日前の自分と比べてまだ広い視点を持てていると感じる、それで良いのか〜。
いずれにしても、新しい世界をみることは美しいけれど、とても孤独である。
30歳は人生に大きな影響を及ぼすと思う
去年の12月に30歳になりました。遅いかもしれないけど、2年前くらいから少しずつ客観性みたいなものが持てるようになって、30歳になると自分で色んなことを選択できるようになりました。
20歳のときは、23歳がずいぶん遠くに感じられたけど、30歳になると、35歳もなんとなくイメージがつくようになる。でも、35歳は35歳で全く違う体験の仕方をしているんだろうな、とも思える。
村上春樹は30歳くらいで小説家として生きることを決意している。
たぶん、戦中戦後とは違って、人間の成熟度も日に日に幼稚になっているのだから、20歳で成人というよりも、30歳で成人くらいなんだろうと思う。時代背景が異なるので何とも言えないけど、周りを見ても、20代は突っ走って悪戦苦闘している人ばかりでも、28歳くらいでだんだん腹が座る。
私も心理学をちゃんと勉強したつもりだけど、実体験としては、「ようやくこの仕事を続けよう」と思えたのが29歳あたりだった。
好きなことに没頭できるのは楽しいけど、自ら没頭している感覚よりも、どこか周りに流されるように巻き込まれた20代で、それは仕事においても、人間関係においてもそうだったと思う。
フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」の主人公も30歳である。とにかく、30歳という歳は今後の人生にかなりの影響を及ぼすんだろうと思う。
東京に行った時、占い師さんに「人は同じようなことを繰り返すけども、前に進んでいる」といったことを言われました。そう言えば、フロイトが提唱した精神分析も反復・ワークスルーに重きを置いてきた。
同じようなことばかりで心身は参ってしまう。過ちが多いと心は擦り減っていくし、なんだかなあ、という感じである。
心傷した時、支えになるのは友人とか人の言葉なのだけど、やっぱりアルコールの力はすごい。昨日久しぶりに赤ワインをコーラのように飲むと、その後は本当に楽しくなって、人生を謳歌したい、みたいな躁的な状態になった。
アルコールを飲む前は、考えたくなくとも無意識に考えてしまって、そのせいで左肺が痛くなったり、目の前に興味を持てなくなったり、少し良い文章とか、人の些細な気遣いを汲み取ると泣けたりしてきたのだけど、アルコールを飲んでしまうと、人生が楽しくて楽しくてたまらなくなったのである。
しかし、見たくないものを見なければならない。
見たくないものを誤魔化して生きるには、5歳老けている。
30代の方、そのように思われませんか?
この後の選択と決断が今後の人生の礎になると感じるのです。
本当においしい日本酒。
本当においしいお酒と出逢うことは、人生の中で実はあんまりない。
以前「ロ万」という日本酒に感動した。
おいしいお酒を飲むためには、もちろんお酒の質は重要なのだけど、私の場合は家でひとりで飲むより店で飲んだ方がおいしい。
特にビールなんかは、達成感のあるイベントの後に飲むと格別だと思う。日本酒やワインは、ペアリングが重要で、食べ物の相性に応じて味わいが変わる。
だから、ロ万を飲んだ時は、その店の雰囲気、人、料理のすべてがマッチングしていたのだと思う。
だけど、今となっては、感動した事実を思い出すことはできても、何を食べて誰と飲んでいたか、ということは覚えていない。
それでも今やロ万は、私にとって、級友のような存在であるし、時々店に置いていると、とてもあたたかな気持ちを思い出させてくれる。
おいしい日本酒を飲んでいても、そこに一体感がなければそのお酒は無二の存在とはならない。
級友というイメージだから、一緒にいた人は古い友人だったかもしれない。男だったのか、女だったのか。それは分からないけど、とにかくロ万を飲んだ時はすべてが完璧だった。
本もアルコールも、自分にとって特別な存在になるためには、そのものの味よりも、味わえるかどうかだったり、その瞬間、完璧だと感じる体験をしたかどうかが大事なんだと思う。
もしかしたら、人もそうかもしれない。
アルコールと読書とフィッツジェラルド
3年前くらいに日本酒とワインを飲みすぎて結構死にかけたことがありました。その時期は仕事量が多くて無駄な残業時間が増えていたし、休みの日には馬鹿みたいに勉強していて、睡眠時間もあまり取れていなかったし、友達とあった時に元気を取り戻すにはお酒を飲むのが最も手っ取り早い方法だったので、仕方がないと思う。
その時期は日本酒が水のように見えていたし、水であればいくら飲んでも心配がないと本気で思っているようなところがありました。でも日本酒3合くらいなら全く酔わないので、それならワインを混ぜようということで日本酒とワインを交互に飲んでいたのです。いかに効率的に酔えるかが当時の1番の葛藤でした。
死にかけた事件があって1ヶ月は膵臓と肝臓が弱まったのか、酒を受け付けない体になったのと、糖分を摂取すると頭が回らなくて覚醒できないって感じになるので、酒を飲むよりも読書する時間が増えたということです。
春ごろにその事件があって、夏頃には村上春樹をすべて読んでしまいました。何も読むものがなくなってしまって、次は翻訳だと思っていたけど、このまま酒の熱量をすべて村上春樹に費やすと1年くらいで読んでしまってすっからかんになるんじゃないかという強迫観念が出てきたので、村上春樹と距離をとることにしました。
でも、夏頃までの期間は自分にとって一番心が豊かになれた時期でした。繊細かつ洗練された言語描写や、人間の本質や心理を象徴的に示唆する村上文学の魅力に、日本酒よりも圧倒されました。そういえばその時期は仕事がかなり暇になったので残業も少なくなったし、もしかすると事件後1年後かもしれない。時差があるけど、それは多分たいしたことではない。
そういうわけでアルコールに依存するよりも、まだマシなのは読書をするということに気付きました。もちろんアルコールを飲んだ時の高揚感はなくなるし、あらゆる欲求不満が満たされることはなくなるけど、アルコールを飲み過ぎると活字が書けなくなるし、活字を読めなくなる、となると、やっぱり優先順位的にはアルコールよりも読書ということになる。
アルコールを楽しめない人と村上春樹を楽しめない人は、どうやって生きているのか気になる。悲観的な洞察力に優れたフィッツジェラルドはどうやって生きた?
今読んでいるフィッツジェラルドの「マイ・ロスト・シティー」の中にある短編はどれも素晴らしい。村上春樹の訳にもキレがあるし、若さがある。歳をとると経験値は上がるし文章表現も洗練されてくるはずだけど、どこか欠落してしまう部分がある。特に、1つの文章にいくつかの文脈を織り込んでしまうと、そのものに一貫性が喪失して、どうにもつまらなくなる。
30歳になっていいことが9割だけど、つまらなくなったという意味では惜しい。3年くらい前までは明確にあった、生と死の接点みたいなところを行き来するのは、もう嫌だなぁと思う。教授に送った年賀状には、30歳まで生きてよかったということを書いたけど、まだ返事はない。恩師に30歳になって寂しい、と伝えると、「40台になればまたやってくる」と言われた。それはそれで吐きそうである。
人生は壮大な暇つぶしと言うけれど、暇つぶしに読書は最適だと思う。アルコールは暇潰しにはならない。死を早めている行為なのだから。
どんなに一生懸命やったところで、それを打ち負かすことなんてできないんです。たしかにこの人は私の手を掴み、ちぎれるくらいにねじりあげるかもしれない。でも、そんなことはたいしたことじゃないんです。
本当にたまらないのは横にいながら手を差しのべることもできないってことなんです。何をしたところで結局は人を救うことはできないという無力感なんです。