瑠璃色のように美しい世界

読書と映画、日本酒とワイン、牡蠣と牛、村上春樹とフィッツジェラルドを愛する筆者が見た美しい世界についての日記です。

アルコールと読書とフィッツジェラルド

3年前くらいに日本酒とワインを飲みすぎて結構死にかけたことがありました。その時期は仕事量が多くて無駄な残業時間が増えていたし、休みの日には馬鹿みたいに勉強していて、睡眠時間もあまり取れていなかったし、友達とあった時に元気を取り戻すにはお酒を飲むのが最も手っ取り早い方法だったので、仕方がないと思う。

 

その時期は日本酒が水のように見えていたし、水であればいくら飲んでも心配がないと本気で思っているようなところがありました。でも日本酒3合くらいなら全く酔わないので、それならワインを混ぜようということで日本酒とワインを交互に飲んでいたのです。いかに効率的に酔えるかが当時の1番の葛藤でした。

 

死にかけた事件があって1ヶ月は膵臓と肝臓が弱まったのか、酒を受け付けない体になったのと、糖分を摂取すると頭が回らなくて覚醒できないって感じになるので、酒を飲むよりも読書する時間が増えたということです。

 

春ごろにその事件があって、夏頃には村上春樹をすべて読んでしまいました。何も読むものがなくなってしまって、次は翻訳だと思っていたけど、このまま酒の熱量をすべて村上春樹に費やすと1年くらいで読んでしまってすっからかんになるんじゃないかという強迫観念が出てきたので、村上春樹と距離をとることにしました。

 

でも、夏頃までの期間は自分にとって一番心が豊かになれた時期でした。繊細かつ洗練された言語描写や、人間の本質や心理を象徴的に示唆する村上文学の魅力に、日本酒よりも圧倒されました。そういえばその時期は仕事がかなり暇になったので残業も少なくなったし、もしかすると事件後1年後かもしれない。時差があるけど、それは多分たいしたことではない。

 

そういうわけでアルコールに依存するよりも、まだマシなのは読書をするということに気付きました。もちろんアルコールを飲んだ時の高揚感はなくなるし、あらゆる欲求不満が満たされることはなくなるけど、アルコールを飲み過ぎると活字が書けなくなるし、活字を読めなくなる、となると、やっぱり優先順位的にはアルコールよりも読書ということになる。

 

アルコールを楽しめない人と村上春樹を楽しめない人は、どうやって生きているのか気になる。悲観的な洞察力に優れたフィッツジェラルドはどうやって生きた?

 

今読んでいるフィッツジェラルドの「マイ・ロスト・シティー」の中にある短編はどれも素晴らしい。村上春樹の訳にもキレがあるし、若さがある。歳をとると経験値は上がるし文章表現も洗練されてくるはずだけど、どこか欠落してしまう部分がある。特に、1つの文章にいくつかの文脈を織り込んでしまうと、そのものに一貫性が喪失して、どうにもつまらなくなる。

 

30歳になっていいことが9割だけど、つまらなくなったという意味では惜しい。3年くらい前までは明確にあった、生と死の接点みたいなところを行き来するのは、もう嫌だなぁと思う。教授に送った年賀状には、30歳まで生きてよかったということを書いたけど、まだ返事はない。恩師に30歳になって寂しい、と伝えると、「40台になればまたやってくる」と言われた。それはそれで吐きそうである。

 

人生は壮大な暇つぶしと言うけれど、暇つぶしに読書は最適だと思う。アルコールは暇潰しにはならない。死を早めている行為なのだから。

 

 

どんなに一生懸命やったところで、それを打ち負かすことなんてできないんです。たしかにこの人は私の手を掴み、ちぎれるくらいにねじりあげるかもしれない。でも、そんなことはたいしたことじゃないんです。

本当にたまらないのは横にいながら手を差しのべることもできないってことなんです。何をしたところで結局は人を救うことはできないという無力感なんです。

 

フィッツジェラルド 村上春樹訳 「アルコールの中で」